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HOME > 掲載記事(鹿児島) > 2017年11月号 鹿児島歴史探訪─大久保利通という生き方

西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」と称される大久保利通。新政府樹立後は政界の中心人物として、版籍奉還、廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代には地租改正の建議を行い、岩倉使節団での欧米諸国視察後は、内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務。間違いなく明治日本の政治リーダーであり、藩閥意識を超えて新生日本の近代化に尽くした業績では維新三傑の中でも大きいが、西郷の絶大な人気もあり、「西郷さんを追いつめた」「明治初期に独裁的権力をふるった」と人気は今ひとつだ。

「堅忍不抜」

 

「庁舎に入ると、雑談はやみ、あたりは水を打ったように静まり返った」といわれるほど、厳格さにも凄みがある政治家だった大久保利通。座右の銘は、「堅忍不抜(けんにんふばつ=堅い意志を持ち、辛いときも耐え忍ぶ)」と「為政清明(いせいせいめい=政を行うには、心も態度も清く明るく)」。明治という国家を動かす為政者としての覚悟や王政復古のネゴシエートなどに見られる粘り強く忍耐力のある性格が感じられる大久保らしい言葉だ。

 

1830(文政13)年、鹿児島城下高麗町で琉球貿易を管轄する琉球館に勤めていた大久保利世の長男として生まれ、幼少期に高麗町から甲突川対岸の加治屋町に移住し、西郷隆盛らと共に学問を学んでいる。3歳年上の西郷とは同じ方限、郷中で育った竹馬の友だと言われ、大久保の妹たちの証言では、ほぼ毎日ふたりは一緒だったそうだ。この頃の二人は、西郷は「沈毅寡黙な麒麟児」、大久保は「剛邁不羈な悪戯者」と評されていて、特に大久保は一般的なイメージとは違うようだが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという。

 

15歳で元服し、藩の記録所書役助として出仕するが、1850(嘉永3)年に起こった島津斉興の正室の長男・斉彬と、側室・お由羅の子である久光との家督相続を巡る対立、いわゆる「お由羅騒動」で斉彬派が大弾圧され、斉彬派に属していた父・利世が遠島され、大久保自身も記録所を免職、謹慎させられることになる。大久保家はこの時、一切の収入が途絶え貧窮する。この時、大久保19歳。この経験が後の性格を決定づけるきっかけになったとする見方も多い。

 

翌年、島津斉彬が藩主となったことで謹慎を解かれて記録所に復職し、西郷と大久保らが結成していた若手改革派集団「誠忠組」のリーダーとして活動するようになる。斉彬の死後は、新藩主・島津茂久の実父であり藩政後見の島津久光に接近し、以後は久光に取り立てられているが、この時の逸話が「大久保が囲碁で出世した」というものだ。

 

囲碁が好きで、鹿児島城下吉祥院の住職・乗願に習っていた久光に取り入るために、住職の弟で大久保の終生の友人でもある税所篤に頼み、吉祥院に囲碁を習い、さり気なく政治に関する話や誠忠組についての話をして、それが久光の耳に届くようにした。また、久光が読みたがっている本を知るとその本を吉祥院を通して久光に献上し、その中に手紙を挟み、国事の難や建白の文章を記載。それが久光の目に留まり、側に上がって碁の相手をするようになったというもので、その後、異例の出世を遂げて藩政に参与。小松帯刀とともに、島津久光の側近として藩政改革を推進している。

 

 

「為政清明」

 

1862(文久2)年には初めて幕末期の政局の中心地である京都に足を踏み入れ、弱体化した幕府の改革を目指して、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策。以後、大久保は西郷と共に薩摩藩の中心人物として活躍し、薩英戦争では指揮に当たり、戦後イギリスとの講和交渉では巧みな交渉術を発揮している。

 

1867(慶応3)年に徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行し、明治新政府を成立。この年の大久保はとにかく忙しく、藩の上層部への説得や長州藩や土佐藩、さらには朝廷とのすり合わせなど、超過密なスケジュールで東奔西走していたが、それだけの胆力と体力、知力が備わっていた。

 

こうして幕末の政界に登場した大久保は、薩長土肥の藩士達が中心となった明治新政府で参与、参議を務め、旧藩主達や多くの士族の反対を押し切って廃藩置県や版籍奉還などの政策を次々と断行し、中央集権国家の確立に政治家として豪腕を振るうことになる。

 

当時の国際社会は、欧米列強がアジアの国々を次々と植民地化している帝国主義時代。開国したことで帝国主義の荒波に飛び込んだ日本は、植民地化されるのを防ぐためにも、早急に中央集権体勢の強権的な国家を築きあげる必要があった。明治新政府は、勢いはあっても政権基盤がは脆弱だったからだ。

 

1871(明治4)年には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊。帰国後は、内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして、「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。

 

日本の近代化を促進するため、官営の鉱山や工場を立ち上げ、先進諸国の機械設備や技術を導入。日本の工業化を積極的に進めたほか、海運業も重視し、岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助して、上海航路を独占することに成功している。また、西洋農法の導入も重視し、東京大学農学部や東京農工大学農学部の前身となる駒場農学校を設立したり、福島県郡山市に疎水を建設して荒野を水田に変えるなど、日本の近代化に大きな功績を残している。

 

「維新の誠意を貫徹するには30年必要」と考えていた大久保は、明治創業期を10年ごと3期に分け、第1期は内乱鎮静・創業の時期、第2期は民産の時期、第3期は後見に継承し発展の時期とし、自身は第2期までその職務に付きたいと述べていた。しかし1878(明治11)年、志半ばにして石川県士族の島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺、47歳でその生涯を閉じている。その際、紫の袱紗に包んだ西郷隆盛からの手紙2通を持っていたという。

 

大久保が暗殺された後、遺族が驚いたのは、遺産を整理すると僅か数百円の現金しか残しておらず、それどころか借金が8000円(現在の金額で約1億6000万円)もあったことだ。しかもその借金は全て政府の財源不足を賄うために大久保が自分名義で借りたものだった。大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めず、政府は大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8000円を回収し、さらに8000円の募金を集めて、この1万6000円で遺族を養った。

 

大久保は、政権中枢にいて巨万の富を得ることも不可能ではなかった時代に、明治国家を一番に考え、最期まで清廉を貫いた政治家だった。

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