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HOME > 2019年11月号 エリア特集「早良区北部エリア(百道・藤崎・西新)」

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■発刊…毎月初旬

    ※鹿児島版は隔月発刊

■サイズ…A4(フルカラー)

■発行部数…福岡版/2.7万部

      鹿児島版/2万部

■広告掲載・取材に関するお問い合わせ先

(発行元)東京経済株式会社 福岡支社 出版事業部

TEL 092(285)0605

福岡市早良区の北部エリア(百道・藤崎・西新)は、地下鉄・バス・都市高速といったあらゆる交通手段が発達しており、商業施設や公共施設、オフィスビル、高層マンションなどが多く、福岡市の西の副都心を形成している。

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福岡市の西の副都心を形成するまでの

早良区北部エリアの歴史

 

早良区のルーツは、区名の由来にもなっている旧早良郡にある。大正時代に書かれた地誌「早良郡志」によると、10世紀初頭に記された書物の中に「早良(佐波原)」の名が載っているとあり、「早良」の名称は、古来この地に縁があった「早良臣(さわらのおみ)」に由来するという説や、周辺の気候にちなんで「さわらぐ(乾燥する)」から転じたとする説などがある。

 

1896(明治29)年の郡制施行で、東は鳥飼村や樋井川村、西は姪浜町や残島村(能古島)までの町村を早良郡とし、郡長を西新町に置いていた。大正・昭和に入って、郡内の各町村は市域に次々と編入。1972(昭和47)年、福岡市が政令指定都市に昇格した時に発足した西区は、早良郡早良町を1975(昭和50)年に編入し、早良郡は消滅するが、区名として「早良」の名が復活した。

 

旧早良郡の中心地として発展してきた北部地域は、1981(昭和56)年の地下鉄空港線の開業や市政100周年を記念して1989(平成元)年に開催されたアジア太平洋博覧会(通称よかトピア)の主会場となった西部臨海部開発(シーサイドももち)などと一体となったまちづくりによって、西部の広域拠点として確固たる地位を占めている。

 

シーサイドももちの埋立て前には海水浴場があり、にぎわっていた百道は、古くは蒙古襲来の際、この海岸から元軍の主力が上陸し、南の祖原山に本陣を構えた歴史的な場所で、このエリアには元寇防塁が残っている。

 

今回は、福岡市の西の副都心を形成するまでの早良区北部エリアの歴史を振り返る。

 

 

悠久の昔から人々が暮らした場所

 

北は博多湾に面し、東は樋井川、西は室見川に挟まれた百道。地名は、遥か昔この地を往来する人々の足跡が、東西縦横に交差する様子を「百の道」と表したことに由来するといわれている。

 

弥生時代〜古墳時代の集落の跡(西新町遺跡・藤崎遺跡)が見つかっていて、古くから人々の暮らしがあった場所で、古砂丘上に集落や墓地がつくられていたことがわかっている。

 

藤崎や西新には、古くから弥生土器や三角縁神獣鏡などの発見があって、学史的にも注目されてきた遺跡群がある。昭和50年代以降の福岡市営地下鉄や藤崎バスターミナルの建設、県立修猷館高校の建て替え工事などにともなって発掘調査が進み、弥生時代から古墳時代前期を中心とする集落や墳墓の全容が明らかになっている。

 

弥生時代といえば、稲作農耕文化のイメージだが、西新町・藤崎遺跡群は農耕不適地に立地しており、出土遺物などからも、漁村的な遺跡であったと考えられいる。また、中国や朝鮮半島など遠隔地からもたらされた遺物も多く出土することから、漁撈とともに海を介した対外交易などをも担った集団が暮らしていたようだ。

 

 

元寇の歴史を残す石築地(元寇防塁)

 

 

鎌倉時代のいわゆる元寇で、蒙古軍が上陸した百道浜の海岸は、当時は人の住むことがまれな、白砂の浜辺であったと考えられている。

 

元寇防塁について説明すると、1274(文永11)年の蒙古襲来後に、再度の来襲に備えて博多湾沿岸の西は今津から東の香椎まで約20キロメートルにわたって築かれた石塁で、古文書では「石築地(いしついじ)」と記されている。元寇防塁との呼び名は1913(大正2)年に中山平次郎博士が仮称し、定着したものだ。

 

防塁は鎌倉幕府から九州各国に築造の命が下され、1276(建治2)年の3月から8月までの短期間でつくられた。築造にあたっては、幕府の支配下にあった御家人だけでなく、荘園にも負担が課せられ、所領の規模に応じて築造する長さが割り当てられたという。

 

石塁の高さは2.5〜3メートルで、築造の工法は各地区によって異なるが、石材は近くの沿岸部の丘陵や能古島から運んだものと考えられており、1281(弘安4)年の弘安の役では、元軍の上陸を阻止する役割を果たした。

 

その後、14世紀の半ばごろまで防塁の修理の記録が見られるが、以後、埋没し現在に至っている。「元寇防塁」は昭和6年に今津、今宿、生の松原、姪浜、西新、地行、箱崎の各地区が国指定史跡となり、保存されている。

 

 

商業地として発展

そして文教の街へ

 

 江戸時代に入ると、1618(元和4)年、初代福岡藩主の黒田 長政が松の植林を命じ、百道の砂浜は博多湾の潮風をさえぎる美しい松原にかわっていく。1666(寛文6)年、3代藩主の光之は、室見川上流の橋本村にあった紅葉八幡宮を樋井川べりに移すと、八幡宮の門前には人家が建ちはじめ、東の西町から続く唐津街道の新しい町場として栄え、後に西新町と呼ばれるようになった。

 

 

「西新」という町名は、江戸時代に現在の中央区今川付近が「西町」と呼ばれていたのに対し、樋井川以西を「新西町」と呼んだことに由来し、これがいつしか逆転して「西新」になったという。

 

 

藤崎「一里塚」

 

藤崎バスターミナルの斜め向かいの福田眼科にある一里塚の石碑(昭和61年に再建)。江戸時代には、江戸(東京)の日本橋を起点として、東海道に道路の距離標識である一里塚(里程標)が制定された。福岡藩でも福岡城上の橋御門を起点とし、西の前原道は藤崎に、東の箱崎道は桝形門の西中島橋を起点とし、箱崎宮前、南の太宰府道は板付橋に一里塚が制定された。

 

 

 

明治から大正時代にかけて、新たに道路や鉄道がつくられ、1910(明治43)年に後の国鉄西新駅となる駅が西新町内に開業した。電車が通ったことで、西新の発展にはずみがついたのは言うまでもないが、電車が紅葉八幡宮の境内を横切っていたことから、1913(大正2)年に町が一望できる現在の地、高取に遷宮している。

 

一方、このエリアが文教の街へと変わり始めたのは幕末から明治にかけてのことだ。この地域に多くの下級武士たちが住んでいたことから私塾が増えたのが始まりで、百道松原に1900(明治33)年に修猷館が、1918(大正7)年に西南学院が移転してきてからは、文教の街という性格を持つようになった。そして、現在も地下鉄「西新」駅のシンボルマークが「ペンと鉛筆」である通り、このエリアは「文教の街」だ。

 

 

地下鉄西新駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄氏がデザインしたもの。地名のイニシャル「N」を鉛筆とペンで図案化したもので、西新の文教地区としての長い歴史、そして今も福岡県立修猷館高等学校や西南学院中学校・高等学校、西南学院大学がある学生街であることに由来している。

 

 

 

再開発と海岸の埋立て

 

第2次大戦後、宅地開発が進み、百道の松原は次第に姿を消し、浜辺の海水浴場もなくなっていく。そして、昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長によって、モータリゼーションが進展した結果、都市部およびその周辺部での交通渋滞が深刻な問題となった。

 

西新は早良区の商業中心地として発展してきたが、木造住宅と商店の混在や道路等のインフラが脆弱な状態にあった。これらの諸問題を総合的に解決するため、姪浜と博多駅を結ぶ福岡市営地下鉄1号線の駅舎整備や幹線道路の拡幅整備と一体となった、西新地区約1.1ヘクタールのエリアで再開発が行われ、1981(昭和56)年に西新岩田屋をキーテナントとする再開発ビル(後の西新エルモールプラリバ)が完成した。

 

 

上写真は、2019年7月26日に開業した「PRALIVA(プラリバ)」。西新エルモールプラリバ跡地の駅直結型の新しい商業施設で、地上4階建て地下2階建て、約40店舗で構成される。地下鉄「西新」駅に直結する地下2階は食品スーパー、地下1階は総菜・グロッサリーなど食をテーマとしたフロアで、1階から3階には生活関連のショップが並ぶ。

 

左写真は、2015年7月に営業を終了した「西新エルモールプラリバ」。

 

 

 

1982(昭和57)年から海岸の埋立てがはじまると百道浜の景観は一変する。地下鉄や都市高速道路などが整備され、1989(平成元)年にはアジア・太平洋博覧会が開催され、博覧会の跡地には福岡市博物館や総合図書館が開館し、高層マンションが建ち、さらにテレビ局やIT関連会社が集中し、現在は新しい情報文化の発信地の様相を呈している。

 

福岡市西部副都心として大きく発展してきた早良区北部エリアは、悠久の昔から人々が暮らし、唐津街道の要衝地として栄え、現在も交通の拠点として交通利便性のよさがある。そして、商業地・文教の街としてにぎわいがあり、早良区役所などの行政機関といった多彩な都市機能も充実する希少な住環境が揃っている。

 

 

 

 

 

 

 

猿田彦神社

 

地下鉄「藤崎」駅からすぐの場所。毎年、最初の「庚申」の日に行われるのが厄除祈願の祭事「初庚申」だ。 この日は、夜明け前の朝早くから厄除けの「赤い猿面」を求める人で猿田彦神社はいっぱいになる。福岡には「サル」は“去る”に通じるとして、「災いが去る」「幸福が訪れる」とこの猿のお面を 玄関にかける習わしがあり、翌年に、境内に戻して厄を祓う。初庚申のほか、庚申(かのえさる)の日、年に6回か7回の庚申祭を執り行っている。

 

 

 

猿田彦神社の厄除けの猿面

 

 

 

 

磯野広場(サザエさん発案の地)

 

西新6丁目の磯野広場には、「サザエさん発案の地」の陶板が設置されている。これは同漫画の原作者・長谷川町子が東京から疎開していた1944年から1946年まで現在の西新3丁目に住んでおり、百道の海岸を散歩しながら、サザエ、カツオ、ワカメ等の登場人物を考案したことに由来している。当時は西新北側のシーサイドももちが埋め立てられていなかったため、西新のすぐそばに海岸線があった。

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(2017年2月28日発刊)

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