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HOME > 掲載記事(鹿児島) > 2018年4月号 鹿児島歴史探訪─島津斉彬と島津久光

幕末の四賢侯と称され、薩摩藩の富国強兵に努めた稀代の名君主として名高い薩摩藩11代藩主・島津斉彬。一方、斉彬とは異母兄弟で、幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者であり、朝廷と幕府の公武合体を指揮し、倒幕の功労者と称される島津久光。しかし、大久保利通が西郷隆盛に比べて人気がないように、久光の人気は斉彬に比べると今ひとつ。それは現在放送されているNHK大河ドラマ「西郷どん」をはじめとした西郷隆盛を主役にしたストーリーにおける印象によるところも大きい。今回は、史実にもとづいたこの二人の功績や関係を今一度確かめてみたい。

開明的な思想を持った幕末きっての傑物

 

ペリーが浦賀に来航する2年前の1851(嘉永4)年、42歳で薩摩藩主に就任した島津斉彬は、「暗君なし」と言われた島津家でも名君中の名君だ。

 

「二つ頭」と褒め称えられるほど頭脳明晰で、体格も立派で声も大きく、威風堂々としていたといわれる斉彬。江戸の芝藩邸で生まれ、嫁入りのときに多くの書籍を持参し、おむつ替えから読み書きや和歌、絵画の指導なども自らの手で行ったという実母・弥姫と、西洋や中国の文物に強い関心を持ち、中国語やオランダ語も話したという曾祖父・重豪の深い愛情と教育を受けて育ったことが、その人格や価値観の形成に大きく影響を与えている。

 

九州南部にあり、他地域よりも早い1840年代から、激しい外圧にさらされてきた薩摩藩は、前藩主・斉興の頃から軍備の近代化を図っていたが、斉彬はさらにそれを推し進めた。藩主に就任すると直ちにアジア初の近代洋式産業である集成館事業を推進。洋式造船などさまざまなな技術の習得や運用を手がけ、藩の富国強兵に努めている。

 

また、開明政策に積極的でない幕府勢力へも直接政治運動を行い、薩摩藩の存在感、そして発言力を高めたことも大きな功績だ。天璋院篤姫を徳川家に送り込み、幕政への果敢な関与を強めたのはその集大成だ。しかし、第13代将軍・徳川家定の後継として井伊直弼は、紀州藩主の徳川慶福を推薦し、斉彬ら一橋派が敗れる形で、第14代将軍に徳川慶福(家茂)が就任することになる。

 

斉彬は、これに抗議するために5000人の藩士を連れて江戸へ向かおうとするが、その準備段階で急病を患い49歳でこの世を去ってしまう。死因は、当時日本で流行していたコレラとされているが、その死があまりに急でコレラの症状と合致しない点があり、現在では衰弱の仕方から暗殺説をとる見方が強くなっている。

 

ペリー来航によって各藩が、攘夷派と開国派で争う中、幕府や藩という枠組みを超え、日本が一つになって強く豊かな国になることを目指すべきと考えた斉彬。その視野の広さは人材発掘においても活かされ、元は下層藩士だった西郷隆盛や大久保利通を登用した功績は、彼らが明治維新や明治新政府で果たした役割からも大きい。

 

集成館事業においても明治以降には、そこで活躍した人物が全国各地の近代化に大きく貢献しており、近代国家としての日本の礎を築き、さらに日本を豊かな国へと導いた原点となっている。

 

 

斉彬の意思を継ぎ、薩摩藩の力を高める

 

斉彬死後は、前藩主・斉興が実権を取り戻し、斉彬時代の開明事業のほとんどは、白紙に戻されてしまったが、斉興死後、明治維新まで幕末の薩摩を率いたのが島津久光だ。斉彬の遺言により、久光の実子・島津忠義(茂久)が次の藩主となり、久光が実質的な権力者となったからだ。

 

久光は斉彬より8歳年少で、母親は江戸の町人の娘であるお由羅だが、鹿児島で生まれ育っている。少年時代から聡明といわれ、伝統的な国学・漢学に傾倒した。斉彬との関係は決して悪くはなく、薩摩藩が真っ二つに割れた「お由羅騒動」でも久光は兄にかわって藩主になろうとは考えておらず、担ぎ上げられて困惑していたようだ。

 

また、斉彬は久光の才能を高く買い、重臣として相談もし、重要な仕事を任せている。斉彬の死の少し前、勝海舟が咸臨丸で指宿を訪れたが、このとき斉彬は、「彼、若年より学を好む、今にして博覧強記、我が及ばざる処、また志操方正厳格、是もまた我に勝れり」と久光を紹介している。

 

久光は、西郷隆盛と終生相入れない仲であったこともあり、西郷を主役にしたテレビドラマなどのストーリーでは、凡庸な人物として描かれることも多く、史実にもとづいた評価がされておらず、今一度見直されるべき人物だろう。

 

斉興の死後、久光の院政が始まり、「国父」と呼ばれるようになると、側近の小松帯刀をパイプ役として、大久保利通ら斉彬派中核だった精忠組の一部を取り込み、藩内の掌握に成功している。

 

1962(文久2)年には、斉彬の意志を継いで公武合体(朝廷や幕府、諸藩が全員で協力して政治を行うという幕政改革)を進めると称して上京する。この時、西郷はその計画に猛反対するが、島津久光は計画を決行。そのさなかで伏見の寺田屋に集まった薩摩藩内の勤王過激派を粛正する「寺田屋騒動」が起こるが、この素早い対処に感銘を受けた朝廷は、久光に大きな信頼を寄せることになる。そして、朝廷から幕政を改革するための勅使に随行する許しを得て、一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に任命することが決まり、幕政改革(文久の改革)は一旦は成功する。

 

しかし、薩摩へ帰る途中に、久光の行列に紛れ込んだイギリス人を斬り捨てる生麦事件が起こり、薩英戦争が勃発。その対処のために、影響力をもった幕政から一旦手を引くことになる。

 

その後、「八月十八日の政変」で長州藩を京都から追放して、公武合体のために再度行動を始め、朝廷から任命された諸藩の大名から成る参与会議を成立させようとするが、久光の台頭を嫌った一橋慶喜の画策により、わずか数ヶ月で瓦解。公武合体に失敗して失望した久光は、小松帯刀や西郷隆盛に後を任せて、薩摩に帰るも、もう一度江戸へ上京。松平春嶽、山内容堂、伊達宗城らと一緒に「四侯会議」を立ち上げようとするが、ここでも慶喜からの妨害が入り、公武合体をいよいよ断念。この時から、西郷らの主導のもと、薩摩藩は倒幕へ向けて舵をとるようになる。

 

倒幕後、明治政府は久光を維新の功労者として内閣顧問や左大臣に任命するが、新政府と衝突を続け、役職を辞任して鹿児島へ帰郷。あくまで伝統的な日本を重んじた久光は、新政府が出した「断髪令」や「廃刀令」を完全に無視し、一生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかったという。晩年は、島津家の史料に関する編纂をして余生を過ごしている。

 

久光は、「国父」として藩政の実権を握ってからは、公武合体運動の推進で活躍し、斉彬以上に薩摩藩の力を高めることに成功している。また、斉彬の意思を継ぎ、集成館事業を再興をして富国強兵を推進し、薩摩藩が日本最先端の工業施設、技術力をもつようになった功績は大きい。

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