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リア特集 鳥飼

鳥飼という地名の由来・鳥飼潟の戦い(神風は元軍の敗退要因とは関係なかった!?)

1丁目~3丁目が中央区、4丁目~7丁目が城南区と、2つの区にまたがる「鳥飼」は、利便性がよく、生活環境、教育施設の整った住宅地として知られている。今回は、鳥飼の地名の由来、元寇(文永の役)の一大決戦地だった歴史、そして、小学校でも教わった元軍の敗退要因となったと言われる「神風」の真実(?)について紹介する。

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■発刊…毎月初旬

    ※鹿児島版は隔月発刊

■サイズ…A4(フルカラー)

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(発行元)東京経済株式会社 福岡支社 出版事業部

TEL 092(285)0605

人気の住宅地

 

地下鉄七隈線「別府」駅等の公共機関の利用はもちろん、平坦地であることから、天神などの都心部へは、自転車でも簡単にアクセスできる距離にある鳥飼は、交通利便性がよく、生活環境、教育施設の整った住宅地として知られている。福岡市民の憩いの場となっている大濠公園も散策コースで、休日の気分転換にちょうどいい。将来的には福岡の法曹エリアになる九州大学六本松キャンパス跡地も徒歩圏内だ。

 

日頃の買い物に便利なスーパーやコンビニ等のショッピング施設も充実している。個性的な店が多く、地域活性化も含めた商店街の活性化に取り組む鳥飼5丁目商店街での買い物も楽しそうだ。

 

また、規模は大きくないが多数の公園が点在していて、子供の遊び場にも困らない。昔懐かしい駄菓子屋を見つけることもできて、子供の声が聞こえてくる住宅街といった雰囲気がある。

 

現在、鳥飼小学校がある場所には、明治末頃から小規模な採掘が行われた鳥飼炭鉱があり、ボタ山の上に校舎が建てられたという。大正時代に起きた第一次世界大戦の軍需景気で本格的に採掘が始められたが、昭和初期には廃坑。その頃は田園風景の中にボタ山だけがポツンとある場所だったという。

 

 

地名の由来

 

鳥飼という地名には、古くは大和王権の黎明期に、この地域(草香江)の支配氏族として、「神功皇后、三韓征伐より帰朝の時、御餞を奉りし鳥飼氏」とされる「鳥飼」氏族の存在がある。

 

鳥を飼育し、朝廷などに献上した大化前代の品部のひとつ「鳥飼部」は、草香江西岸に在ったとされる鳥飼八幡宮(現・埴安神社:鳥飼3丁目)を奉祭し、その境内の黒殿社に「武内宿禰」とともに氏族の始祖、「鳥飼黒主」を祀っていた。

 

ファミリーマート中央区福岡鳥飼三丁目店の角から小さな路地を少し進んだ住宅地の中にある埴安(はにやす)神社(右写真)の御祭神は、埴安神・菅原道真公・秋葉神・八幡神で、ご利益は五穀豊穣をもたらしてくれる。境内には鳥飼八幡宮の元宮があり、鳥飼八幡宮が現在地(福岡市中央区今川2丁目1-17)に遷座するまでは、ここに鎮座していた。

 

さて、この埴安神社には伝承によると「塩屋の松でつくった社号額」(下写真)が掛かっているのだが、その「塩屋の松」とは、元寇での実戦の様子が描かれている『蒙古襲来絵詞』で黒馬に乗った日本の武士・竹崎季長(すえなが)の後ろにある松だという。

 

 

鳥飼潟の戦い

 

「モンゴル軍が麁原(祖原)から来て鳥飼潟の塩屋の松の下で合戦となった」と蒙古襲来絵詞に書かれているが、この「塩屋」という名称が中央区鳥飼1丁目と城南区鳥飼4・5丁目の間を流れる樋井川に架かる「塩屋橋」として残っている。塩屋橋の南側の旧町名は、塩屋町であり、かつて塩をつくる小屋が並んでいた。つまり、この辺りは当時、干潟であり、元寇(文永の役)の一大合戦「鳥飼潟の戦い」の舞台だったということだ。

 

鎌倉時代に起こった2度にわたるモンゴル帝国・高麗連合軍による日本侵攻、その1度目の襲来が1274年(文永11年・至元11年)の文永の役だ。

 

銅羅や太鼓の音を合図に機動的に進軍する集団戦法や火薬兵器、毒矢、弩、投石器などの武器で瞬く間に対馬・壱岐を侵攻し、肥前沿岸に襲来、博多湾に上陸した元軍。一方、日本軍は博多の息浜(おきのはま)に集結して、元軍を迎撃しようと待ち受けていた。そんな中、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、上陸した早良郡の百道原より約3キロメートル東の赤坂の松林のなかに陣を敷いた元軍を襲撃(赤坂の戦い)し、元軍は麁原へと敗走。本隊に合流しようと鳥飼潟を通って逃れようとした元軍を、肥後の御家人・竹崎季長ら日本軍が追撃するも、馬が干潟に足を取られ、元軍小勢を取り逃がしてしまう。

 

麁原一帯に陣を敷き、ひしめき合う元軍に対し竹崎季長は、援軍を待てとの郎党の制止も聞き入れず「弓箭(きゅうせん)の道は先駆けを以って賞とす。ただ駆けよ」と先駆けを決行。元軍も麁原から鳥飼潟に向けて前進し、鳥飼潟の塩屋の松の下で衝突することになる。

 

竹崎季長主従は、元軍の矢を受けて負傷するなど危機的状況に陥ったが、豊後、肥前、肥後、筑後等、九州各地から後続の参戦があり、日本軍が総力を挙げた激戦となった結果、元軍は鳥飼潟において日本軍に敗れ、百道原へと敗走した。

 

 

文永の役では「神風」はなかった

 

元軍は戦況を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて一夜を明かそうとしたその夜に暴風雨を受けて日本側が勝利したと子供の頃教わった。しかし、後世の記録を排除して、同時代の記録だけを見ると、文永の役における元軍の戦果は対馬、壱岐など諸島の制圧であり、元側と日本側の史料ともに博多湾で元軍が暴風雨を受け、それが元軍の敗退要因となった記載はない。

 

元側の史料『高麗史』よると、元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇し、多くの被害が出たとあり、文永の役においては「神風による日本側の勝利」というのはどうやら事実ではないようだ。

 

ちなみに戦前の教科書「尋常小学日本歴史」(1910年)では、文永の役について、武士の奮戦により元軍を撃退したことが記載されており、大風の記述はない。大風の記述が登場するのは、第二次世界大戦で日本の戦局が悪化する中での国定教科書(1943年)からだ。

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